人質事件としては日本史上最悪!あさま山荘事件を徹底解説!

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人質事件としては日本史上最悪!あさま山荘事件を徹底解説!
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1972年の冬、長野県軽井沢の穏やかな冬景色が、とある事件によって一変しました・・・。

この事件は、連合赤軍という極左過激派によって引き起こされ、「日本史上最悪の人質立てこもり事件」として記録されています。静かなリゾート地の日常が、突如として命がけの駆け引きの場へと変わったのです。

日本史上最悪の人質事件と言われた「あさま山荘事件」はなぜ起きたのか、事件当時の緊迫した犯人と警察との展開を詳しく紐解いていきます。

今回の内容は、

・日本史上最悪の人質事件「あさま山荘事件」とは
・日本史上最悪の人質事件が起きた発端に迫る!
・警察視点からみた日本史上最悪の人質事件での救出劇!

主にこちらの内容で徹底解説して行きます。

目次

日本史上最悪の人質事件「あさま山荘事件」とは

出典:「朝日新聞DEGITAL」

あさま山荘事件は、1972年に長野県軽井沢で発生した過激派組織「連合赤軍」による人質立てこもり事件です。この事件では、連合赤軍のメンバー5人がライフル銃などで武装、舞台となった「浅間山荘」管理人の妻(当時31歳)を人質に取り、約10日間におよぶ警察との銃撃戦を繰り広げました。

そして、この「日本史上最悪の人質事件」は219時間にわたる警察と連合赤軍との攻防戦の末、機動隊の突入で解決することになります。犯人メンバーらは逮捕されましたが、警察官2人と民間人1名が死亡し、27人が負傷するという大惨事となりました。

あさま山荘事件は、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録です。

出典:「朝日新聞DEGITAL」

この人質事件のテレビ中継は「最高視聴率89.7%」を記録!これは日本のテレビ視聴率としては歴史的な記録です。また、この事件は警察の対応、メディアの報道、そして公衆の反応に関する多くの議論を呼び、日本の治安対策やメディア報道に長期的な影響を与えました。いまのテレビでは聞いたことがないような視聴率ですよね(国民のほぼ10人に1人が視聴している計算)。

あさま山荘事件が「日本史上最悪の人質事件」と言われる理由は、その長期にわたる緊迫した対立、警察と犯人との間で繰り広げられた激しい銃撃戦、そして多くの犠牲者を出したことにあります。連合赤軍のメンバーは、社会変革を目指してこの極端な行動に出ましたが、結果として国を震撼させる大事件に発展しました。

そして、事件の舞台となった「浅間山荘」は突如として日本全国の注目を集めることとなりました。

日本史上最悪の人質事件が起きた発端に迫る!

出典:「YAHOO!JAPAN知恵袋」

1970年代はじめ、連合赤軍の前身「京浜安保共闘」と「共産主義者同盟赤軍派」は、それぞれ銀行強盗や塚田鉄砲店襲撃事件を起こして、資金や銃に弾薬を入手、凶暴な犯行を繰り返しながら逃亡を続いていました。

そして、警察に追われていた両派のメンバーは、群馬県の山岳地帯に拠点となる「山岳ベース」を構え、ここで「連合赤軍」を旗揚げしました。しかし、警察の山狩りも進むにつれて、外部からの援助も経たれていき、組織の疲弊は進んで行きました。

過激派組織「連合赤軍」は、日本の社会を根底から変えようとする極左過激派グループでした。彼らは、政治的なメッセージを国に伝えるため、強硬な手段に出ることを決定します。

この目的のために、彼らは静かな保養地、軽井沢にある浅間山荘を選び出しました。連合赤軍が浅間山荘を選んだ理由は、立地の孤立性が、警察の迅速な介入を遅らせることができると計算されたのです。軽井沢の山間に位置する浅間山荘は、外部からのアクセスが限られており、警察の迅速な介入を困難にする条件を備えていました。

1972年2月19日、銃を携えた「連合赤軍メンバー5人」が長野県軽井沢の河合楽器の保養施設「浅間山荘」に突如として侵入、管理人の妻を人質にとり籠城、包囲する警察・機動隊との銃撃戦が繰り広げられることになります。

これが後にまで語られる日本史上最悪の人質事件「あさま山荘事件」が起きた発端になります。

極左過激派グループとは

極左過激派グループとは、政治的、社会的変革を目指して、しばしば暴力的な手段を用いる政治集団です。これらのグループは、現存する社会制度や政府に対する根本的な不満から、革命を通じて新たな社会秩序を確立しようと試みます。連合赤軍もその一つで、1970年代初頭の日本で活動した代表的な極左過激派です。彼らは、社会変革を目指していくつかの暴力行為や人質立てこもり事件を起こしました。

警察視点からみた日本史上最悪の人質事件での救出劇!

出典:「nippon.com」

群馬県の妙義山中に潜んだ過激派グループ「連合赤軍」捜索のため、3,000人規模の警察官を動員した群馬警察本部と栃木・長野ら関東各県警は午後3時頃に、メンバーとみられる男5人を発見、銃撃戦になります。しかし、男たちはいったん逃げ、軽井沢駅から約7km離れた「浅間山荘」へ押し入り、同施設の管理人の妻を人質にして立てこもります。

2月20日、立てこもった連合赤軍はバルコニーに畳などでバリゲートをつくり、断続的に猟銃を発砲するなろして籠城を続けます。

難攻不落の要塞と厳しい命令

出典:「nippon.com」

事件の現場となった「浅間山荘」は、切り立った崖の上にあり、下から攻めようとすれば容赦ない銃弾が降り注ぎ、例え崖の上に回っても壁に開けられた7つの穴から狙い撃ちにされてしまう難攻不落の要塞だったと言います。また、彼らの神格化を防ぐため現場の警察官たちには、当時の警察庁長官「後藤田正晴」氏から「銃の使用は禁止」、「犯人は生け捕り」といった厳しい命令が下っていました。

日本史上最大の人質救出劇

出典:「1972 あさま山荘事件のクレーン車 改造前(Amebaブログ)」

2月28日、事件発生から10日目の午前10時、長野県警は人質の強行救出作戦を決行します。これがあの有名な「鉄球作戦」でした。クレーン車の運転・操縦は民間企業「白田組の白田弘行(80歳)」氏が引き受けました。

警察は人質は2階、犯人らは3階にいると予想していたため、山側からクレーン車を近づけて、玄関脇の2階と3階の階段付近を鉄球で破壊!2階と3階を寸断して、人質の安全を確保し、警視庁第9機動隊が1階に、長野県警機動隊が2階に、そして内田氏率いる第2機動隊が最後に3階から突入して犯人たちを確保するという作戦でした。こちらも、かなり過激な作戦ですよね。

熾烈な銃撃戦と幕引き

出典:「nippon.com」

銃弾が降り注ぐ中、クレーン車の鉄球は狙い通りに玄関わきの階段付近の壁をぶち抜いた!同時に、犯人グループの銃撃を防ぐため、空いた穴をめがけて放水を開始!そして、催涙弾を放ち3つの部隊が動きます。

しかし、人質は予想に反して2階どころか1階にもおらず、連合赤軍のメンバーと一緒に3階にいました。この時、連合赤軍のメンバーが撃った銃弾が、放水の指揮を執っていた警察官の頭を直撃・・・命を落とすことになります。当時、初めて出た犠牲者に現場はパニックになったと言います。

作戦開始から1時間半後、最前線へ進む内田氏に銃口が向けられ、銃弾は内田氏の左目に命中!搬送された病院で死亡が確認されます。

当時クレーン車を操縦していた白田氏「内田氏が撃たれた時は愕然としました。目の前です。」と語っています。

その後、同日午後1時までに3階「いちょうの間」とホールを残して、1階・2階・3階の半分を警察隊が制圧!犯人は3階「いちょうの間」に強固なバリゲートを築いて抵抗、熾烈な銃撃戦を繰り広げますが、警察隊は命令通りに連合赤軍のメンバー全員を生きたまま身柄を確保。無事に人質も救出することに成功します。

こうして、およそ10日間におよぶ「あさま山荘事件」は幕を閉じます。

熾烈を極めた日本史上最悪の人質事件「あさま山荘事件」の幕引き

今回は、日本史上最悪の人質事件「あさま山荘事件」とは、日本史上最悪の人質事件が起きた発端、警察視点からみた日本史上最悪の人質事件での救出劇、についてまとめて徹底解説してきました。

ここまで読まれた方なら、この「あさま山荘事件」が如何に凄惨で過去類を見ない、大規模な人質救出作戦だったか、よくわかっていただけたと思います。本当に、多くの犠牲者を出したことは事件から52年経過したいまでも、想像するだけでも恐怖感が沸き起こってきます。

最後に、逮捕された連合赤軍のメンバーの1人「坂東国男」容疑者は、1975年(昭和50年)のクアラルンプール事件で「超法規的措置」により釈放されています。が、しかし、1977年(昭和52年)にダッカ事件を起こして国際手配され、いまでも逃亡中!・・・だそうです。これには、本当に、驚きました。

昭和の時代、似たような事件を起こし、名を残した桐島聡容疑者が遂に発見されましたが、坂東国男容疑者もどこかで発見されることを期待したいですね。

それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました!

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沼主

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